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お知らせ

img973オークション出品と選挙投票日が偶然に重なってしまいました。 今月も仕事が忙しい為、この度のブログはお休みします。 来年春、発売予定のユーリアの新作は順調に編集が進んでおりますのでしばらくお待ちください。


ロシアタレントとの出会い#40

img975ユーリアが地下鉄の入り口から歩いてきた。 『おはよう』と言いながら近づいてくる。 久しぶりに会うユーリア、薄いブルーのセーターが良く似合っていてなんだか前よりきれいになったように見えた。ホテルの前の駐車場からモスクワ郊外にある別荘へ出発。約一時間で別荘に着いた。前の撮影の時は一面の雪景色だったので庭がこんなにも広いとは知らなかった。 周囲が高い塀で囲まれているので安全、人の目を気にせず心配なく撮影ができることを確認できた。庭の奥にはプールもあり花あり、木あり、自然に囲まれた豪華な別荘だった。木が多いせいか真夏なのに結構涼しい。 撮影機材を運びこんでから皆でお茶を飲みながら一休憩。撮影に慣れていないモデルの場合はお茶を飲みながら雑談することにしている。モデルとカメラマンとの信頼関係を作るためでもある。しかし現地スタッフは食べる、飲む、話す...パーティが大好き。いつまでも話していて仕事を始めようとしない。私がしびれを切らして立ち上がっても気にしないで楽しそうに話しているのだから困ってしまう。国民性だから仕方ないと思うのだがユーリアは違う。ユーリアは皆と雑談しながら鏡を前に置いてメークをしたり衣装を選んだり無駄に時間を過ごさない。仕事に真剣に取り組むユーリアを見習うべきと常々スタッフに言い聞かせている。しばらくしてからユーリアと二人で部屋や庭の様子を見ながら打ち合わせをして歩いた。 庭で楽しそうにしているユーリアが何とも自然で思わずシャッターを押してしまう。楽しそうにポーズするユーリアはまだあどけなさが残る少女だった。この時の写真はごく一部しか作品に使っていない。今フイルムやビデオのオリジナルテープを見直している。作品に使わなかった未使用のフイルムがかなり沢山あることに気が付いた。


ロシアタレントとの出会い#39

3637想像を超えたユーリアの人気に私は驚かされた。一人のモデルを撮り続けるとは思ってもいなかったが取り敢えずモスクワへ行く決心は出来た。 前回、ストロボの光量不足で大変苦労したので今回は海外でも使えるようなストロボを購入して持って行くことにした。当時はフイルムやバッテリーなど重いものばかり...機材を含めると手荷物の重量制限の20キロはすぐにオーバーしてしまう。カメラとフイルムだけは肌身離さず...機内持ち込み。持って行きたいものは沢山あるがどれを持って行くかどれを外すか...いかに手荷物を最小限にするか...毎回の事だが荷物の準備は出発直前までかかる。とにかく過去の経験から撮影に必要なものだけはどんなに重量をオーバーしても自分の手で持って行くことにしている。ユーリアの衣装はサイズが特殊なのでモスクワで購入することにした。 モスクワに到着後、別荘の確認をしなければならない。日本から別荘を探すようにスタッフに指示していたにも関わらず彼らが見つけてきた別荘はあまりにも粗末な別荘だった。激怒する私に彼らは『一生懸命探したが見つからなかった...探すのは大変』と愚痴を言う。当時は借りられる別荘が少なかったので彼らの言い分も理解できるのだが撮影場所が無ければ撮影は出来ない。特にユーリアを撮る場合は人の目を気にせず安全なところでないと撮影できない。スタッフと撮影できるような別荘を必死で探したが見つからない。前回使った別荘を再度借りられないか交渉したところ借りることが出来た。この別荘は庭も広く部屋数もあり調度品も豪華だったので申し分ない別荘である。運良く借りることは出来たが...足元を見られてしまったのか借りる費用は前より高い金額を要求されてしまった。『仕方ない』。ヌードの撮影はどこでも撮影できるわけではないのでどんなに費用がかかっても安全な場所であればOKせざるを得ない。何とかユーリアを撮影する準備が整った。 ホテルに帰りほっとする間もなく撮影機材の点検...毎回の事だが誰にも頼れない自分一人だけでしか出来ない作業である。明朝、日焼けしていないユーリアが現れることを祈って眠りについた。日本から何回もアシスタントに連絡してユーリアには絶対日焼けさせないように頼んだのだが...翌朝ホテル前に9時集合...。


ロシアタレントとの出会い#38

img 今月は仕事が忙しくブログを休みます。 オークション出品の衣裳の準備にかなり時間がかかっています。 ユーリアは好きな衣裳であるといろいろなシーンで何回も着ます。 同じような色や似た柄の衣裳も多い為、まずどのシーンで着用したのか探します。次に着用したシーンの写真をフイルムから探し出してプリントします。 ユーリアの愛用した衣裳を出品しますのでオークションに多くの参加をお待ちしています。


ロシアタレントとの出会い#37

AC-09思い出したことがあるので話を少し前に戻す。 ユーリアをテスト撮影し帰国してから写真を見せた所、ユーリアの撮影に同行したいと申し出があった。ユーリアを撮っても作品がヒットするか全く予測できなかった私にとって協賛者が現れたことはとても有難いことだった。渡航費用、撮影経費など費用の心配無くモスクワに行けるからだ。しかし、渡航寸前で協賛者が『費用を出せないので中止したい』と言い出したのである。『何故...どーして?』渡航寸前のこの事態は私には大変なショックだった。 ユーリアを撮る前の10年間、ロシアで撮影した作品は雑誌社が買ってくれたので自費で行くことに心配は無かった。前にも書いたが巨乳モデルを撮るのはユーリアが初めて。作品の買い手も無いままモスクワに行くことも初めて。すでにモスクワでの撮影手配をスタッフに連絡していた事もあり、自費で行くしかないとモスクワ行きを決めざるを得なかった。撮影した作品の販路も決まらないまま不安を抱えて一人でモスクワに出かけた時の気持ちは忘れることが出来ない。崖っぷちに立たされた私には『やるしかない!』こんな気持ちになったのは初めての事だった。今思えば真剣に取り組んだ結果は良い作品につながったし、ユーリアを独占で撮影することが出来たのだから『禍転じて福』となった。渡航前にこのような出来事があったので次回の撮影をするべきか悩んだが、撮影を継続しなければモスクワのスタッフとの縁も切れてしまう...『とにかくユーリアにかけてみよう』と決心できたのもユーリアとの不思議な縁だったのかもしれない。 次回の撮影は決まり次第連絡するとスタッフに伝えて帰国した。渡航前の事件もあり帰国後、ユーリアの作品をどこにも売り込まず発表もしないまま時間が過ぎてしまった。BACHELOR誌にユーリアの写真を数枚掲載したことがきっかけでユーリアの存在が日本のみならず世界の巨乳ファンに知られることになるのである。


ロシアタレントとの出会い#36

C-17撮影条件が良くない環境で撮影したVHS1,2,3だったがかえって良くない環境がロシアの雰囲気を出す結果となった。ロシアの美少女ユーリアの存在は世界中に知られることとなった。 モデルユーリアを撮影したいと世界中のカメラマン、映画製作会社、雑誌社、その他さまざまなところからの問い合わせが連日メールで届いた。ユーリアの意思を尊重してすべての問い合わせは断り続けた。しかし、アメリカからダニー・アッシュが来日して直接交渉してきた時はいささか断ることも出来ず...『有料サイトとは何ぞや..』.あまり良く理解しないまま画像を提供することにしてしまった。KIZU.NETを立上げたものの半年でやめることとなったり...その後、一度だけ興味を持てた問い合わせがあった。イギリスから『ユーリアを歌手として売り出したい』とのオッファーに私は心が動いた。話を伝えたがユーリアは全く興味を示さなかった。『やはりユーリアは私だけが撮影し彼女のイメージを壊さない美しい写真だけを発表していこう』と改めてその時決心したのです。 VHS作品も大量生産せず国内だけで販売していた。海外からは『どうして海外に売らないのか』と連日のように問い合わせ。『木津はケチだ』とバッシングもすごかった。『売らないからだ』と言われネット上にユーリアの画像が無断使用され氾濫してしまい収拾できない状態になってしまった。どうすることがベストだったのか... 結論は出ていない。一つ言えることはユーリアの美しいイメージを変えずに作品を発表した事かも知れない。長い間ファンを魅了し続けているユーリアの存在は奇跡に近いと思っている。 この写真はVHS VOL.1のパッケージに使った写真です。VOL.1のパッケージは当時一番人気でした。


ロシアタレントとの出会い#35

ユーリアを数日撮影し帰国。帰国後ユーリアの作品をどのように発表するか... 今までロシアの巨乳モデルを撮ったことが無かっただけにユーリアをどのように発表していくか本当に悩んだ。ユーリアが日本のファンに受け入れられるのか...不安を抱えながら作品作りをした事を思い出す。 いろいろな人の意見を聞き検討し、VHS作品を3作、作ることに決めたのです。初めての動画制作でもあり無我夢中で取り組んだ3本のVHS作品、シナリオの無いユーリアの撮影風景を自然に表現した作品として多くのファンを魅了できたことは自分にとって大きな自信となった。 出版業界にも陰りを感じ始めていた頃でもありインターネットの時代、デジタルの時代に乗り換える決心が出来たのは『ユーリア』の存在だったと言える。 ネット販売をするためのホームページ【RUSSIAN BEAUTIES】を立ち上げたのもカメラマンとしては時代に沿った対応だったと思う。ホームページを立ち上げてみたものの『ネットとは何ぞや』『デジタル化とは...?』良く理解しないままスタートしてしまった。 当初、ホームページにユーリアの写真を沢山アップするべきと言われ、ユーリアのヌード写真を惜しげもなく提供した。有料サイトと思われるほどユーリアのヌード写真をアップしたのです。メリットはユーリアというモデルの存在が世界中に知られたこと、予想以上のアクセス数でホームページもパンク状態になったこと。デメリットは無断盗用されたユーリアの画像がネット上に氾濫したこと。とにかく、ユーリア旋風に振り回されて右往左往するばかりだった。ユーリアのような美しい巨乳モデルはいなかったのかもしれないがこの反響のすごさにただ驚くばかりだった。 img


ロシアタレントとの出会い#34

img729ユーリアとカチューシャ二人の最後のシーンは一階、ロビーの茶色の大きなソファーに決めました。撮影にも慣れたのか二人の息もあって楽しそうにしている少女達、清潔感のある初々しい感じが印象的な二人でした。 ユーリアとカチューシャ、二人の写真を私は時間を忘れて撮影していた様です。最後のシーンを撮る時にはストロボの電池が残りわずかになっていました。 このシーンも沢山撮りたいと思いましたが電池切れで長い時間撮影を続けることが出来ませんでした。残念... 当時は手持ちのストロボを使用していた為、十分な機材力で撮影できる環境ではなかったのです。ユーリアの一回目の撮影は機材が無い状態での撮影だったので大変な努力をして撮影したのを記憶しています。次回、撮影の時は何とか機材を改良して少しでも良い状況で撮影をしなくてはと考えていました。 カチューシャとユーリアの撮影が終わったので集合したホテルの前まで車で移動しました。カチューシャの母親がホテルまで迎えに来ていました。帰り際にカチューシャは少し興奮気味に『今日は最高に楽しかった』と私に話し『又会いましょう』と言って握手して別れました。 ユーリアはアシスタントと明日の撮影の打ち合わせをしていました。打ち合わせが終わるとユーリアは『明日の朝の集合時間は9時ね』と私に確認し...『又明日』と言って友達と一緒にメトロの方に歩いて行きました。この日はすごく寒くて吐く息が真っ白...近くのビルの温度計を見上げると気温は-20度となっていました。 スタッフと別れてホテルの中に入りパスポートを提示してロビーを抜けてエレベーターに乗って部屋に戻りました。荷物を整理してすぐに明日の撮影の用意をしなくてはなりません。撮影済のフイルムの整理が済むと明日使う機材のチェック、フイルムの用意など完璧にしなくては...気が付くと夜の12時を過ぎていました。


ロシアタレントとの出会い#33

img722暖かな部屋にいると外の寒さをすっかり忘れて皆、軽快に動いていました。 私が何も言わなくてもユーリアは自然なポーズを決めてくれます。ユーリアの自然な動きに合わせて私はシャッターを押し続けました。ユーリアの動きはすべて絵になるのです。ユーリアも私も時間を忘れて撮影を続けていたようです。 お昼になったのでアシスタントが料理した食事を皆で一緒に食べました。別荘の台所は広くて清潔で調理器具は何でも揃っていました。デザートは暖かい紅茶とロシアのケーキ。ユーリアもカチューシャもすっかり打ち解けて和やかな雰囲気になっていました。早速、二人は赤いカーテンのベッドルームに移動し撮影開始。カチューシャのバストは大きくないけれど形の良いバストです。しかしユーリアと一緒に撮影を始めたらユーリアのバストに圧倒されてしまってカチューシャの戸惑う様子が見えました。しかし、あえて私は何も話さずカメラを構えて二人のポーズが決まるまでしばらく待っていました。カチューシャは性格も穏やかで品格のあるモデルです。ユーリアもやさしく思いやりのあるモデルです。相性も良かったのでしょう...すぐに意気投合して二人で話し合いをしながらポーズを決め、良い作品を作りたいという姿勢に変わっていきました。ベッドの上に二人の少女...本来ならエロチックな光景になるのかもしれませんが...なぜかユーリアとカチューシャはそのような雰囲気にならないのですから不思議です。カチューシャは英語が得意だったので私は通訳なしで英語で話をしていました。すると横でユーリアが私とカチューシャの会話を聞きながら軽くうなずいていたのが印象的でした。ユーリアは英語を話すのを恥ずかしがっていたのです。


ロシアタレントとの出会い#32

p27ホテルに戻り一休憩。ホテルの前にはロケバスがすでに待っていました。 ユーリアとユーリアの友人のネイルアーティスト、モデル、カチューシャとスタッフがロケバスに乗り込み撮影場所の別荘に移動です。 さすがプロのネイルアーティストです。撮影の合間にユーリアの爪にマニュキアを美しく施してくれました。このシーンはRBD1に収録されています。 ユーリアの友人は台所で食事の支度などしながらユーリアの撮影が終わるのを待っていました。 この写真は写真集Part1に掲載した写真と同じシーンの写真です。この時に着用した赤のドレスはユーリアが大学に入学した時にオーダーしたというドレスです。この赤のドレスはユーリアのバストが大きいので特別にオーダーしたと言っていました。ユーリアが着用できるサイズの衣装を日本で用意することができなかった為、デビュー当時の衣装はユーリア自前のものが多かったと思います。 外は粉雪が舞っていて別荘の周りの広い庭は銀世界...外の気温は-12℃...美しいい銀世界の中でユーリアを撮影したいと思いましたが撮影に慣れていないユーリアに無理は言えません。この日は室内だけで撮影することにしました。 この別荘は暖房設備が整っていたので各部屋の温度を上げて暖かくしてから撮影を始めました。ヌード撮影に慣れていないユーリアとカチューシャだったので特に最初は神経を使って環境づくりをしたことを記憶しています。それぞれ慣れるまでは女性スタッフとカメラマンだけで撮影し、後半二人が慣れたところで二人一緒のシーンを撮影しました。


ロシアタレントとの出会い#31

img2123か月ぶりのモスクワは冬。空港を出たら外は真っ白な雪景色、凍りつくような寒さに思わずコートの襟を立てて迎えの車に乗りこむ。翌日は早速オーデションがある為、ホテルに着くとスタッフとオーデションの打ち合わせ。夕食は日本から持って行ったおにぎりとパンで簡単に済ませ、撮影の準備、カメラ機材のチェック...やっと就寝...3時でした。 オーデション会場に60人ぐらいのモデルが集まり、その中から清潔感のあるカチューシャを選びました。カチューシャは大学生、もちろんヌード撮影は初めての仕事です。オーデションの後、テスト撮影をし、次の撮影に備えました。 翌日は撮影第一日目、モスクワは厳しい寒さで-10℃、再会を約束して別れたユーリアと3か月ぶりに会うことができました。ユーリアは微笑みながら私の頬に挨拶のキスをしてくれました。 ホテルから歩いて15分ほどでクレムリンの赤の広場に着きます。赤の広場の意味は『美しい広場』。赤の広場に鳴り響く鐘の音は幻想的で忘れることができない。 黒のフードのついたロングコートを着たユーリアは赤の広場の石畳の上に立ち止りました。その姿が凛としてあまりに美しく見えたので思わずシャッターを押したのです。聖ワシリー寺院を背にしたユーリアの写真は公開と同時に世界中に配信されてしまったのです。誰が見ても印象的で素晴らしい写真であった事は間違いない。 しばらく赤の広場でユーリアを撮影していたのですがあまりの寒さで私の指の感覚が無くなり撮影することができなくなってしまったのです。ひとまずホテルに戻り休憩です。 赤の広場からホテルに戻る時、雪が降り出したのでフードを深くかぶってさっそうと歩くユーリアの姿を今でも思い出します。この時のシーンの写真を見る度に郷愁を感じます。私はこの時以来モスクワに行くと必ず赤の広場に行くことにしています。このシーンが正式なユーリアのデビュー写真なのです。 この冬の撮影はカメラ機材の持ち込みの制限もありカメラ3台、ビデオ1台、電気も十分に使えない時だった。今から思うとこの悪い条件で撮影した写真はすべて当時のロシアの雰囲気を物語る作品に仕上がったように思える。今はカメラも良くなり電気も十分に使える時代になったがこの雰囲気を表現できる写真を撮れるかどうか...


ロシアタレントとの出会い#30

AF01モデル達と別れた後、ホテルの部屋に戻り荷物の整理です。 10日間の滞在も終わり、明日は帰国。撮影が終わった疲労感と安堵感で今日の撮影を思い起こすこともなく、ひたすら荷物の整理です。日本からフイルムを300本(36枚撮り)持って行ったのですがほとんど全部のフイルムを使い切っていました。フイルムの重さは約10キロ。荷物の中で一番大切なものは撮影済みのフイルムです。荷物の紛失もありうるのでフイルムだけは毎回、身に着けて帰国します。撮影の失敗は絶対無いという自信はありますが、現像の仕上がりを確認できるまではやはり気がかりなものなのです。 ロシア美少女紀行の写真集に登場させるモデル達を選んでT出版社に持っていきました。この時、ユーリアの写真は美少女紀行のイメージと違うので出版社には持って行かなかったのです。 ユーリアは今までのモデルとは別格のモデルだったので正直どうしようか大変迷ったのです。ユーリアは素晴らしいモデルだと思っていたのですが『世界に通用するモデルなのか...日本人に受けるモデルなのか...』自分としては確信が持てなかったのでBACHELOR誌の編集長に見てもらうことにしたのです。ユーリアの写真を一目見ただけで『20年に一人のモデルになるかもしれない...すごいなーこのモデルは..』と編集長は熱っぽく言ったのでした。世界のトップモデルを知り尽くしている彼の経験から自信を持ってユーリアを認めたのです。当時、世界の雑誌にもロシアの巨乳美少女は登場したことがなかったのです。私はモスクワのスタッフにユーリアを再度撮ると連絡し、早速撮影の準備を始めました。


ロシアタレントとの出会い#29

AB-053人のモデル達も皆、初ヌードです。3人とも街を歩けば男たちが振り返るほどの美女なのですがユーリアのオーラに圧倒されたのでしょう。マネージャーとモデル達の話し合いが長引いていたので『ヌード撮影ができないのならすぐに帰ってください。』と私は言いました。しばらくするとモデル達は説得されたらしく撮影の準備に入りました。私はモデルたちへの配慮として撮影はユーリアと同じようにしました。他のモデル達を撮り終えてみるとユーリアの素晴らしさに改めて気づかされました。ユーリアは最高のモデルの条件をすべて備えていたのです。モスクワに来て初めて最高のモデルに会えたという感激は今でも忘れることができません。3人のモデル達も一生懸命仕事をしてくれたので良い写真は撮れました。しかし、比較する事ができないほどの差があったことは事実でした。撮影が終わり皆でホテルまで帰り、ホテルの前でひとりひとりと握手をして別れました。ユーリアは小さな声で『ダスビダーニア(さようなら)』と言ってメトロの方へ歩いて行きました。


ロシアタレントとの出会い#28

img311何枚か写真を撮ったのでユーリアの青い服を脱いでもらいました。黒の下着になったユーリアはとても緊張している様子。ポーズを変えた時にユーリアの胸の大きさに初めて気が付きました。洋服を着ていると胸がさほど大きいとは思えなかったので...とにかくびっくりしました。ユーリアは胸を大きく見せたくなくてブラジャーで押さえていたようです。今まで撮影したモデルとは比較にならないほど白い肌の美しいバストでした。その時の衝撃は今でも鮮明に覚えています。ユーリアの美しさに心を奪われてばかりはいられません。今まで経験のないほど撮影に集中した自分を思い出します。ユーリアは緊張はしていたけれど自然な動きが最初からできたモデルでした。こんなに気が合ったモデルとの撮影は本当に初めてでした。どんなポーズも絵になるのでシャッターを押し続けていた私に気が付きました。正直言ってこの時ほど他のモデルを撮りたくないと思ったことはありませんでした。もっとユーリアを撮影したかったのですが他のモデルのプライドを傷つけるわけにもいかないのでユーリアの撮影は2時間ぐらいで切り上げました。 他のモデル達がベランダからユーリアの撮影を見ていたらしく...3人のモデルが『私は今日、撮影をしたくない』と言い出したのです。明らかにユーリアの素晴らしさに圧倒されたのではないかと思いました。モデルのマネージャー達がモデルを説得していたのを思い出します。


ロシアタレントとの出会い#27

AY-15前日に見せられたユーリアの写真とはまるでイメージが違う美少女だったので思わず『あなたの名前は?』と尋ねると恥ずかしそうに『ユーリアです』と澄んだ小さな声で答えました。他のモデル達の集合時間は9時だったのでユーリアにはホテルのロビーで待ってもらいました。 黒髪を後ろで束ねて背筋をピンと伸ばし、ソファーに座っているユーリアの姿を見て何となく今までのモデル達とどこか違う感じがしたのです。その時は特別ユーリアの胸が大きいとは感じられなかったが今日は何か良いことが起こるような予感がしたのを覚えている。 この日は3名のモデルと一緒にユーリアも撮影用のバス(オンボロなワゴン車)に乗ってモスクワ郊外の別荘に向かいました。 バスの中ではユーリア以外の3人のモデル達は同じモデル事務所だったので楽しそうに騒がしくおしゃべりに夢中でした。ユーリアは1時間のバスの中でも一度も姿勢を崩さず外の風景を見続けていました。ヨーロッパ風の二階建ての庭が広い別荘に着きました。そして広い台所で30分ほどモデル達とお茶を飲みながら撮影の打ち合わせをしました。その後、撮影の準備のできたモデルから撮影を始めることにしました。今日は4人のモデルを撮影しなくてはならないので私ものんびりしていられず別荘のあちこちを見て歩きました。撮影を始める前にそれぞれのモデルのイメージを考えてどこでどのように撮るか考えます。太陽の光が柔らかいので庭を最初の撮影場所と決めました。台所にモデル達の様子を見に行くとユーリアだけがきちんと撮影の準備をして待っていました。他の3人はおしゃべりばかりして何も準備をしていなかったのです。その為、最初にユーリアと庭に出てポートレートの撮影を始めました。ユーリアは今日が初めての仕事だったのです。女性のマネージャーが日本人のカメラマンが撮る仕事だから安心しても良いと説明をしていたので仕事を受けたそうです。ユーリアはすでに日本のことを良く調べていて理解していました。ユーリアがとても緊張していたのでロシア人のスタッフが話しかけて彼女をリラックスさせていました。彼女は青いワンピースを着てカメラの前に立ちました。この写真がユーリアを撮った最初の写真です。


ロシアタレントとの出会い#26

img551ブログNo.24の続き モスクワの地で撮影を始めたのは20年前。何回オーデションをしたのか... 多すぎて思い出すことが出来ない。約10年間は『美少女シリーズ』を撮り続ける。作品は出版社の雑誌のグラビアや写真集に発表した。この頃、編集者から『ロシアの巨乳美少女の企画を考えたらどうか』という案が出たのである。正直、この頃私はモデル探しに限界を感じていた。モスクワでの撮影をやめようと思っていた時だった。良いモデルが見つからなくて悩んでいたにも関わらずロシアのスタッフはモデルの良し悪し関係なく人数だけ集めてくる...これからは美少女だけでなく胸の大きいモデルも探すようにスタッフに厳しく伝えた。ところが何を勘違いしたのかスタッフは太ったモデルばかり連れてくる始末。オーデションに参加するモデル達はほとんどがファッションモデル...『ロシアでは胸が大きければデブしか居ない』とスタッフは言い張る。 何度もスタッフに『巨乳モデル』の説明するが全く理解しない。困り果てた末、私はスタッフに『モスクワでの撮影は今回で終わりにする』と宣言したのである。 いつになく私が怒りを抑えて真剣に話したのでスタッフも顔いろを変えてしばらく無言のまま立ちすくんでいた。10年目にしてスタッフの真剣な顔を初めて見たような気がする。その日の夜、10時過ぎにスタッフがホテルに2人のモデルの写真を持ってきた...誰が撮ったのか...本当にひどい写真だった。一人はレスラーのようなモデル、もう一人は服を着て地味な雰囲気の若いモデルだった。この写真では胸の大きさも判断できないとスタッフに言うと『明日、朝にモデルを連れてくるので是非見てから判断して欲しい』と真剣に言うので取りあえず若いモデルだけをテスト撮影することにしたのである。テスト撮影当日朝、8時30分頃、インツーリストホテルの前でモデルを待った。トヴェルスカヤ通りの舗道に立ってクレムリンを見ていると、100mほど先にある地下鉄の階段から若い女性が私の方へ向かって歩いて来た。写真とはまるで別人の色白で清楚な美少女が私の前に立った。『貴方はモデルさんですか?』と私は声をかけた。そのモデルは『ダー』と答えた。


ロシアタレントとの出会い#25

モスクワへ撮影に出かけて20年目。ロシア、ウクライナの紛争が治まる様子が無い...本当に困った... 現地スタッフから国内の状況を電話で知らせてくるのだが...当分行く事は出来ないようだ。今回はヌード写真は撮らない予定だった。可愛いロシアの美少女達を撮るつもりで現地スタッフにモデルを集めてもらっていた。集めた美少女達をいつ撮れるのか... この20年間に私が遭遇したテロ事件はいろいろある...事件がある度に国際空港の警備が異常に厳しくなり空港に入るのにかなりの時間がかかったのを記憶している。 2002年、モスクワ劇場占拠事件、2003年、モスクワ爆弾テロ、2004年、北オセチア学校占拠事件...等があった。北オセチア学校占拠事件の時は私が宿泊していたロシアホテルの前の赤の広場に約20万人の人が集まっていた。その光景は異常な様相だった。その時はモスクワの町が完全に封鎖されたのでホテルから一歩も外に出る事が出来なかった。この時よりも今のウクライナ紛争は解決する見通しがつかない...今回の紛争が終わらない限り安心してモスクワやキエフに行くことができないだろう。前にも書いたが緊張の連続...何が起こるか予想もつかない怖い国だが現地スタッフは『サトシさん、大丈夫、大丈夫!ロシアは地震無いから』と日本語で話す。彼らは国の紛争やテロの危機感を常にもって生きている。しかし、『モスクワは地震が無いのだから安全!』と思える彼らは災害に関しては楽観的なのかもしれない... img975img978  


お知らせ

出張撮影の為ブログお休みします。img172


ロシアタレントとの出会い#24

img6662回目オーデション以降、私は毎年、1~2回モスクワに行っています。 その後、オーデションを開くのですが目を引くようなモデルを見つけられなくなり...低迷の時期が続きました。私が最初モスクワの女性を見た時の感激は時間が経つにつれ次第に薄れていくようでした。私がモデルを選ぶ基準が高くなっていったのかもしれない。モデル撮影もしないで帰国する事も何回もありました。 当時はネットではなく現地スタッフが探してきたモデルやモデルエージェントが紹介するモデルから選ぶ方法でした。だから『当たり』より『はずれ』の方が多かったのです。『今回でモスクワに来るのは終わりにしよう』...と何回思った事か...。 当時の現地スタッフやモデルエージェントはロシアのモデルであれば日本人は『だれでもOK』をするものと勘違いしていたようだ。しかし私は頑としてモデル選びだけは絶対に妥協しなかったのです。モデルエージェントも現地スタッフも私が妥協しないので喧嘩になる事度々... 現地スタッフは皆、女性だったので怒りだすと凄まじかった。私が言葉をはさむ余地が無いほど...大声でヒステリックにまくしたてるのです。さすがの私も負けそうになりました。 私が探しているモデルは日本で働くタレントで無く写真のモデルなのだから...『グレードの高いモデルを探せ』と強く皆に教え込んだのです。良いモデルであれば良い仕事につながるのだからと何回も言い続けました。 彼らはモデルを連れてくればお金になると勘違いしていて理解させるのにかなり時間を費やしました。又、当時はロシアの女性が日本に働きに来ていて、彼女達からの都合の良い情報だけを聞き『日本人は金持ち』と思いこんでいるロシア人が多かった。彼らは私が日本人だから金持ちと思い続けていたのだから...困ったのは私です。しかし、現地スタッフがいなければ私もモスクワで仕事が出来ない。次の仕事につながるように彼らに報酬だけは支払うことにしていました。回を重ねる度にスタッフも私の気持ちを理解し始めて、かなりグレードの高いモデルを探して連れて来るようになりました。良いモデルを連れてきた場合、ボーナスを出したので彼らは次第に意欲的にモデルを探すようになりました。 『地獄の沙汰もカネ次第』世界共通かもしれない。 img792


ロシアタレントとの出会い#23

 2回目のオーデションの様子を話ししましょう。 場所は一回目オーデションをした場所と同じところですが人数が多い為、ダンス教室の大きなスタジオを借りました。スターリン時代に建てられた建物なので古いけれど趣のある立派な作り。今回はどんなモデルが来ているのだろうか...不安な気持ちで重々しい扉を開けて中に入った。うす暗い廊下を通っていくとその先に椅子に座っているモデル達らしき集団が見えてきた。どんな顔のモデルなのか良くわからない...本当に暗い...不安で近くに行きモデル達の顔を見回してしまった。何人か美少女の顔が見えた時はホッとした。モデルは60人ぐらい集まっていたのでスタジオに入ってオーデションを始める事にしました。 一回目のオーデションの教訓を生かして、この度は水着姿でカメラの前に立ってもらうことにしました。ストロボをセットし各モデルのアップと全身の写真を撮影し、良いモデルだけ残ってもらい再度写真撮影をし、4人のモデルを決めました。母親同伴のモデルもいて仕事が決まったモデル達は飛び上がって喜んでいたのが印象的でした。モデルが決まったにも関わらず他のモデル達は帰ろうとしないのです。マネージャーに『どうして皆帰らないの?』と尋ねるとモデル達は『仕事をしたい』と言って残っているのだとか... このオーデションを受ける為にバスと電車を乗り継いで3時間もかけて来たモデルもいました。モスクワ市内と言っても相当な広さです。東京のように交通網が発達していないのでここまで来るのが大変だったとか...。選ばなかったモデル達には本当にすまないと思いました。事前に写真選考してからオーデションで決めたかったのですが、今まであてにならない写真を多く見せられたので...自分の目で確かめるしか無かったのです。 私が選ぶモデルの条件は『若い』『顔がやさしい』『日本人好みの顔の子』特に『写真写りが良いモデル』が重要な決め手になります。この4人のモデル達は『ロシア美女探訪』の写真集に登場しました。 写真集を作る場合、通常は出版社が企画を立ててモデルやスタッフを手配し、カメラマンを決めて撮影に出かけます。取材費はすべて出版社が持ちます。 私の場合はすべて自費で撮影し、撮影した作品を出版社に売り込むという方法をとっていました。外国で生活した経験があったからこそ自分で何もかも出来たのかもしれません。失敗は許されないという緊張感と使命感は常に持って外国で仕事をしていました。何故このような方法を私がとったのか... 出版社を頼らずに自分の作品を自由に作ってみたかった... 作品が写真集になるまで時間がかかるので費用面では大変苦労しました。撮影場所を外国にした為、費用がかかるのは仕方ない事だが....渡航費、滞在費、モデル代、現地スタッフ費用、車や別荘の費用、etc.すべて現金払い...何もかも自分でしなくてはいけない...苦労は今も続いています。苦労の甲斐あってヒット作品や売れ行きの良い写真集が出来た時の喜びは格別です。だから20年も続けてしまったのかもしれない。 img791img765


ロシアタレントとの出会い#22

01モスクワから帰国してロシアモデル写真集の企画案を持って雑誌社を尋ねました。オーデションで選んだモデルの顔写真を見ながら編集長と打ち合わせをしました。後日会議の結果『ロシア美女紀行』として美少女達の写真集を制作することに決まったので、早速ロシアのアシスタントに私の希望するモデルを探すよう指示したのです。 2回目のモスクワは『ロシア美少女紀行写真集』の撮影でスタートしました。 1994年6月、夏の始めなので前回の冬のモスクワとはまるで町の感じが違って見えたのです。肌を大きく露出して個性的な服装で歩いている若い女性達がとても魅力的でした。最初のモスクワは冬の終わりだったので町は暗くて寒くて...良い印象はありませんでした。モスクワの夏は白夜なので夜遅くまで明るくてかなり長い時間撮影できるのでカメラマンにとって好都合でした。 ホテルはクレムリンに近いインツーリストに泊りました。モスクワの中央だったのでモデル達と会うのにとても便利な場所で、近くには国際電話局やマクドナルド一号店もありました。ホテルから日本に電話をかけると電話代があまりにも高くて驚きました。当時、ホテルから電話をする場合、電話代は先に払ってからでないと国際電話がかけられなかったのです。10分ぐらいの通話料金が一泊のホテル代と同じくらいでした。毎回電話代を前払いしなくてはいけないので不便で高くて...近くの国際電話局まで歩いて行って日本へ電話していました。国際電話局からかけた通話料金はホテルの通話料金の1割ぐらいでした。ホテルの中で利用する物はすべて高く...例えば日本で10円のコピー代がホテルでは一枚120円ぐらいでした。ホテルの近くにあるレストランは高くてまずいのでマクドナルドのハンバーガーを良く買って食べました。当時のモスクワはマクドナルドのハンバーガーは珍しくて高級品だったのです。ロケ先でハンバーガーを出すとモデル達は大喜びで瞬時にして無くなってしまうのです。私が食べる時には何も残っていないので次回は余るぐらい買って持って行くのですがやはり足りない状況でした。当時のモスクワはすべての物が世界一高いと感じました。地下鉄の入口には年老いたお婆さんが並んで物売りをしていました。人の集まるところには沢山の物売りが立っているのです。この頃のモスクワは大都市だと思っていたのですが人々の様子を見ると貧富の差が歴然としていました。私がホテルの前に立っていると男が寄ってきて『タバコをくれ』と言うのです。『ない』と言えば今度は『金をくれ』と要求するのです。小銭があったのでそれを渡すと『少ない』と言って投げつけるのですから...。この時、私はルーブルの貨幣価値がわからず小銭を渡したので男が怒ったのかもしれません...。わずかな滞在期間にも関わらず私はいろいろな場所で同じ経験をしました。日本では想像も出来ない事が日常茶飯事に起きている当時のモスクワでした。 0302


ロシアタレントとの出会い#21

モデルオーデションに話を戻します。ロシア人のモデルは年齢より老けて見えるので若く見えるモデルを3人選びました。他にも美しいモデルはいたのですが新鮮さが無かったので保留にしました。今回はテスト撮影と決めていたのでアシスタントの自宅を借りました。団地なので部屋は狭かったのですが、ロシアっぽい雰囲気の部屋が気にいりました。オーデションで選んだ3人のモデルには時間をずらしてアパートに来てもらいました。 最初のモデルはアンジェリーナ、背の高いスタイルの良いモデルでした、ファションモデルの卵なので決まったポーズは得意でした。彼女は水着の撮影後トップレスになってもらい撮影しました。彼女は美人なので次回撮影する事を決めました。 2番目はオルガでオールヌードを撮影しました。オーデションの時は少女っぽく見えたのですがヌードになると特別な色気を感じるモデルでした。彼女はアシスタントの友人で1時間ほどかけて撮影しました。撮影後アシスタントに『とても楽しかった。又撮って欲しい』と言っていました。 3番目のモデルは私が一番撮りたいと思った子でした。ところがヌードになるとバストは小さめ...ボディは太め...撮りながら『ちょっと失敗したなー』と後悔しました。次回オーデションは水着着用で慎重に選ぼうと思いました。 モスクワに滞在中竹書房の撮影チームが大掛かりなオーデションをして モデルを選び撮影していました。その情報はモデルエージェントから聞いていました。私は彼らが選ばない素人っぽいモデルを探すことに決めました。ポーズができなくとも新鮮なモデルを撮りたいと思って探しました。 8日間のモスクワ滞在でしたがモスクワのモデル事情が少し分かったのが収穫でした。これからモスクワに20年も通い続けるとは...。 下手な白黒のモデル写真を持ってきたマネージャーがいました。薄汚い格好でやる気の無いようなマネージャーでロシア語しか話せない男でした。彼とは相性が良かったのか...20年間私の仕事を手伝ってくれています。 img808img621


ロシアタレントとの出会い#20

img7301994年3月、私が最初にモスクワに行った時、街はすべて節電をしていました。ホテルや地下鉄などの電灯は60%しか点いていませんでした。計画停電もありストロボが使えなかったりして戸惑う事ばかりでした。このような状況の中で最初のモデルオーデションをしたのです。日本にいたタレント達がモスクワに帰国し、モデルエージェントと連絡をとり情報はあったのですが、初めてのモスクワでモデルがうまく探せるか不安がありました。 モスクワ郊外にあるバレースクールの教室で最初のオーデションをしました。煉瓦造りの古い建物で鉄の扉を開けて中に入った所は地下の廃坑のような所でした。急な階段を下りたところにあるスタジオまがいの小さな部屋にストロボをセットしモデルを待ちました。うす暗い廊下にモデルが立っていましたが暗くて顔が良く見えませんでした。ファッションモデル経験者と素人モデルが30人ほど集まりました。私の条件は初ヌードです。私は日本にいるロシアのタレントしか見ていなかったのでオーデションに来たモデル達がとても新鮮に見えたのです。各モデルと簡単な会話をし顔写真を撮って、結果は後で連絡することにしました。最初のオーデションには驚くほどのモデルはいませんでしたが若いモデル3人を選んで撮影することにしました。 オーデションが終わってしばらくするとアシスタントに報酬を要求されたのです。黙っていると仕事に関係ない人まで一緒についてきて報酬をくれと言うので困りました。当時、一か月の平均収入は300ドルと聞きました。私も初めての経験だったので初回は仕方なく彼らの要求通り支払ったのです。次回から、報酬に関しては仕事をする前に条件をつけて金額を交渉することにしたのです。私が良いモデルだと思うと彼らは足元を見てギャラを高くします。私としては売れるかどうかわからないモデルに法外なお金は払えません。最初はきっぱりと断ることが出来ない自分に腹がたちました。中途半端な態度はやめて『絶対に要らない』と断ると相手は態度を軟化させるという事もわかりました。日本のモデルエージェントと違って外国人に対して最初は法外な要求をするロシアのモデルエージェントのスタイルも徐々にわかってきました。その後も報酬の事では何度となく口論となりました。しかし私の提示した金額に相手が応じない場合、はっきりと断ることも出来るようになったのです。後日、モデル代を下げて再交渉の連絡が必ずあるのです。日本と違ってモデル代やアシスタントの報酬の基準価格が無いのでお金の交渉が最も大変なことでした。 後になってわかったのですが私が払うモデル代やアシスタントへの報酬は、ロシアの基準よりかなり高額だったらしいと聞きました。モデルとアシスタントが気持ち良く仕事をしてくれる事が良い作品につながる事だから...仕方ない...と思っています。


ロシアタレントとの出会い#19

モスクワに初めて行った時、日本では考えられない事を多く経験しました。 ホテル内にあるドルの両替所の事です。両替所の窓越しに女が指先で『金を早くいれろ』と指示するのです。足りない分ルーブルの古い紙幣を出したらその女が紙幣がきたないと突き返したのです。あまりに横柄な態度なので思わず『古くてもあんたの国の紙幣だろー』と私は怒鳴りつけてしまいました。 それからカメラ店でフイルムを買った時にも同じことを経験しました。フイルム代を古い紙幣で支払ったらきたない紙幣だからと店員が突き返すのです。私は頭に血が上りゼスチャーを交えて英語で文句を言いました。『この金はこの国で両替した紙幣だ!』と...店員は私の言った事を理解したのかどうかわかりませんが急におとなしくなってしぶしぶお金を受け取ったのです。彼らは相手の態度によって横柄になったり、強い態度で接すると仕方なくおとなしくなる事に気がつきました。 参考までにトイレの話もしたいと思います。 それは男子トイレのことです。立ち小便するのに位置が高すぎてつま先を立てて用を足さなければいけません。私などは短足ですからジャンプしても届きません。仕方なしに大便用のトイレを見つけて駆け込んだことがしばしばありました。つまり男子用立ち小便用の壁掛け小便器(壁掛けストール型)の高さが問題なのです。足の長い人には大丈夫だと思いますが殆どの日本人は困っているはずです。空港やホテルなど公共の場所は私が経験した限り不親切な便器でした。要するに大人から子供まで使用できる床置小便局[ストール型]であるべきだと思います。この頃のモスクワのトイレは快適な場所ではありませんでした。 一流のデパートのトイレに行きましたが大便の便器はすべて台座が盗まれていました。如何して用を足すのか考えても想像ができません。『どんなに立派な建物でもトイレを見ればその国の文化がわかり、紙はその国の経済を語る...』と教えられました。 私がモスクに行き始めた頃のトイレットペーパーは手でもんでやわらかくしてからでないと使えないほど厚くて硬い紙でした。トイレットペーパーは日本から必ず持っていくことにしています。img005